1581、束の間の春
今日は4月11日、早くも4月の初旬は終わりだ。
春の珍事とでもいうのだろうか、梅も桜もないままに春は過ぎ去ったかの印象である。
今ブログの旅はバルセロナで、あと少しで終幕となる。その間、慌ただしくも春は過ぎて行ったようだ。庭の木々を見ていても、すでにハナミズキが花をつけているし、モッコウ薔薇も今満開である。いつもなら5月の連休時期に咲く花なのにと思っている。季節が少しづつ前倒しに進んでいるのかもしれない。
今年も花見にも何度か足を運んだのだが、序の桜で気が入っていないせいか見ごろの花にはぶつからなかった。あっという間に咲き始め、気が付いたら散っていたそんな感じの桜で、もうすでに葉桜も葉桜という感じである。五反田で見上げた桜は池上線が背景だった。この日は日曜で花見客が多かったようで、いつも行く焼き鳥屋が品物がない騒ぎであった。信濃屋さんはいつ行っても繁盛している鳥屋さんで、なる程の日曜日であった。
たまプラもこのあざみ野も桜事情は同じで、ろくに桜の下の散歩もないままに、もう花柄の季節である。タバサが居たら抱き上げて花柄を避けたものだが、もうそんな気遣いもしない日々では、風に舞う花柄もどこ吹く風である。風といえばこの頃、風が吹く日が多く、鉢植えの花々が乾いた鉢で萎れそうで、水やりが大変なくらい乾燥もしているようだ。でも暖かい日々で毎日の暮らし向きは平安である。
母がたの叔父が亡くなり、先日葬儀に行った。西谷という相鉄線の駅が最寄りの駅で、久方で従妹らと会いまみえた。おじさんには随分お世話にもなったが、私が長じて次第に疎遠になり、こんなことでもなければ会うことも稀な親戚であった。私の母が亡くなってから40年、仕方のないことなのかもしれない。ご冥福をお祈りするばかりである。
昨日は上野に出た。西洋美術館でプラド展が開催されており、ベラスケスを見るためである。上野は相も変わらず、シャンシャンである。10時半ごろに上野に着いたが、すでにパンダ見物は午後の切符の配布、展覧を見て出てきたときには当日券はなくなっていた。その人気に驚くばかりである。
プラドにも20年前に訪れていたが、記憶はあいまいでどの作品も初めてお目にかかった様な気がするばかりであった。美術館の庭にある考える人の像の背後に躑躅が咲き誇っていた。この花も連休に咲く花と記憶する。今も少しづつ前倒しで季節は進んでいるようだと、辺りを見回した次第である。
いつのまにか若葉の美しい季節になっていたようで、四囲美しい青葉が陽光に輝くようだった。私たちは上野の藪そばでおなかを満たし、いつものようにうさぎやとみはしに寄った。どら焼きとあんみつがおみやである。
地下鉄はひんやりと冷房が効いていた。どこの駅だったか外人さんが何人も乗り込んできたが、行きたい方向は浅草だったらしく、笑い転げて次の駅で降りて行った。これからしばらくは、旅の季節なのかもしれない。地下鉄の中でも、外人さんを見かけることが多くなったようだ。
春の珍事とでもいうのだろうか、梅も桜もないままに春は過ぎ去ったかの印象である。
今ブログの旅はバルセロナで、あと少しで終幕となる。その間、慌ただしくも春は過ぎて行ったようだ。庭の木々を見ていても、すでにハナミズキが花をつけているし、モッコウ薔薇も今満開である。いつもなら5月の連休時期に咲く花なのにと思っている。季節が少しづつ前倒しに進んでいるのかもしれない。
今年も花見にも何度か足を運んだのだが、序の桜で気が入っていないせいか見ごろの花にはぶつからなかった。あっという間に咲き始め、気が付いたら散っていたそんな感じの桜で、もうすでに葉桜も葉桜という感じである。五反田で見上げた桜は池上線が背景だった。この日は日曜で花見客が多かったようで、いつも行く焼き鳥屋が品物がない騒ぎであった。信濃屋さんはいつ行っても繁盛している鳥屋さんで、なる程の日曜日であった。
たまプラもこのあざみ野も桜事情は同じで、ろくに桜の下の散歩もないままに、もう花柄の季節である。タバサが居たら抱き上げて花柄を避けたものだが、もうそんな気遣いもしない日々では、風に舞う花柄もどこ吹く風である。風といえばこの頃、風が吹く日が多く、鉢植えの花々が乾いた鉢で萎れそうで、水やりが大変なくらい乾燥もしているようだ。でも暖かい日々で毎日の暮らし向きは平安である。
母がたの叔父が亡くなり、先日葬儀に行った。西谷という相鉄線の駅が最寄りの駅で、久方で従妹らと会いまみえた。おじさんには随分お世話にもなったが、私が長じて次第に疎遠になり、こんなことでもなければ会うことも稀な親戚であった。私の母が亡くなってから40年、仕方のないことなのかもしれない。ご冥福をお祈りするばかりである。
昨日は上野に出た。西洋美術館でプラド展が開催されており、ベラスケスを見るためである。上野は相も変わらず、シャンシャンである。10時半ごろに上野に着いたが、すでにパンダ見物は午後の切符の配布、展覧を見て出てきたときには当日券はなくなっていた。その人気に驚くばかりである。
プラドにも20年前に訪れていたが、記憶はあいまいでどの作品も初めてお目にかかった様な気がするばかりであった。美術館の庭にある考える人の像の背後に躑躅が咲き誇っていた。この花も連休に咲く花と記憶する。今も少しづつ前倒しで季節は進んでいるようだと、辺りを見回した次第である。
いつのまにか若葉の美しい季節になっていたようで、四囲美しい青葉が陽光に輝くようだった。私たちは上野の藪そばでおなかを満たし、いつものようにうさぎやとみはしに寄った。どら焼きとあんみつがおみやである。
地下鉄はひんやりと冷房が効いていた。どこの駅だったか外人さんが何人も乗り込んできたが、行きたい方向は浅草だったらしく、笑い転げて次の駅で降りて行った。これからしばらくは、旅の季節なのかもしれない。地下鉄の中でも、外人さんを見かけることが多くなったようだ。
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