1753、ご当地ソング、忘れていた日本の歌Ⅱ、無縁坂
若い頃、仕事先が谷中、根津、千駄木のあたりだったこともあり何年間もこの付近に通ったことがある。谷根千と呼ばれる下町で、坂の多い街だった。仕事場は不忍通りに面したところにあり、地下鉄の千駄木駅から至近の距離だった。団子坂、三崎坂と二つの坂を下りたところに千駄木の駅があり、団子坂を上ると向ヶ丘から本郷の丘に、三崎坂を登ると谷中墓地から上野に続く公園あたりに続いている。
その昔、不忍池からこの谷根千辺りには川が流れており、川のくぼ地に今では不忍通りが通っている。藍染川というのが川の名前で、漱石の三四郎はその川に遊び、ストレイシープのみねこさんに恋をした。そんな土地柄で、鴎外の観潮楼があったり、漱石の猫の家もあったりと文人たちの由緒ある旧跡があり、弥生式土器が発掘された弥生町なども近い。躑躅の根津神社も建つ。
この谷根千という場所は坂が多く、根岸辺りから坂を拾うと、芋坂、将軍坂、動坂、狸坂、菊坂、新坂、裏門坂などなど、記憶を辿るだけで思い出せる坂は尽きない。湯島近く岩崎弥太郎の旧宅の脇にも急な坂があり、坂を下り切ると池之端に出る細い坂だった。無縁坂がその坂の名前で,さだまさしの名曲「無縁坂」の舞台だ。谷根千に通っていた当時、75年か76年ころ佐伯徹という俳優がいて、ダンドンというという店を千駄木に出していた。私たちはそのスナックに行き、この「無縁坂」に出会った。もうはるかに遠くなった昭和の良き時代のお話である。仲間とダルマを傾け、南京豆を口に運び、時にダンドン麺を食べ、この歌を歌ったものである。カラオケの走りだったと記憶している。店の片隅にあるジュークボックスに百円玉を入れ選曲する。歌のないレコードがあり、曲だけの演奏が入る。カラオケの走りだったと記憶する。
母がまだ若い頃 僕の手を引いて この坂を登るたびいつもため息をついた
ため息つけばそれで済む 後ろだけは見ちゃダメと
笑ってた白い手はとても柔らかだった
運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど
そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思う
忍不忍無縁坂かみしめるような
ささやかな僕の母の人生
いつかしら僕よりも母は小さくなった
知らぬ間に白い手はとても小さくなった
母はすべてを暦に刻んで流して来たんだろう
悲しさや苦しさがきっとあったはずなのに
運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど
めぐる暦は季節の中で漂いながら過ぎてゆく
忍不忍無縁坂かみしめるような
ささやかな僕の母の人生
無縁坂を唄いながら、なぜだか水割りが進む夜だった。ダンドン、懐かしい飲み屋さんだ。
その昔、不忍池からこの谷根千辺りには川が流れており、川のくぼ地に今では不忍通りが通っている。藍染川というのが川の名前で、漱石の三四郎はその川に遊び、ストレイシープのみねこさんに恋をした。そんな土地柄で、鴎外の観潮楼があったり、漱石の猫の家もあったりと文人たちの由緒ある旧跡があり、弥生式土器が発掘された弥生町なども近い。躑躅の根津神社も建つ。
この谷根千という場所は坂が多く、根岸辺りから坂を拾うと、芋坂、将軍坂、動坂、狸坂、菊坂、新坂、裏門坂などなど、記憶を辿るだけで思い出せる坂は尽きない。湯島近く岩崎弥太郎の旧宅の脇にも急な坂があり、坂を下り切ると池之端に出る細い坂だった。無縁坂がその坂の名前で,さだまさしの名曲「無縁坂」の舞台だ。谷根千に通っていた当時、75年か76年ころ佐伯徹という俳優がいて、ダンドンというという店を千駄木に出していた。私たちはそのスナックに行き、この「無縁坂」に出会った。もうはるかに遠くなった昭和の良き時代のお話である。仲間とダルマを傾け、南京豆を口に運び、時にダンドン麺を食べ、この歌を歌ったものである。カラオケの走りだったと記憶している。店の片隅にあるジュークボックスに百円玉を入れ選曲する。歌のないレコードがあり、曲だけの演奏が入る。カラオケの走りだったと記憶する。
母がまだ若い頃 僕の手を引いて この坂を登るたびいつもため息をついた
ため息つけばそれで済む 後ろだけは見ちゃダメと
笑ってた白い手はとても柔らかだった
運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど
そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思う
忍不忍無縁坂かみしめるような
ささやかな僕の母の人生
いつかしら僕よりも母は小さくなった
知らぬ間に白い手はとても小さくなった
母はすべてを暦に刻んで流して来たんだろう
悲しさや苦しさがきっとあったはずなのに
運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど
めぐる暦は季節の中で漂いながら過ぎてゆく
忍不忍無縁坂かみしめるような
ささやかな僕の母の人生
無縁坂を唄いながら、なぜだか水割りが進む夜だった。ダンドン、懐かしい飲み屋さんだ。
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